学部長エッセイ(2021.06)
大学生協
自分の身内は、父方をたどっても、母方をたどっても、日本人の平均寿命を押し下げることに貢献している者がほとんどなので、とてもそこまで生きられるとは思っていませんが、仮に平均寿命(2019年の統計で男性81.41歳)まで生きられるとすると、残り20年ちょっとです(実際は、現実的な目標である実父の享年まで、あと10年ちょっと生きられたら御の字だと思っていますが[1])。で、そう考えると、どう計算しても、一生のうちで一番沢山昼食を摂ったのは大学生協の食堂ということになります。なにしろ、10代末から約40年間のほとんどの期間、どう少なく見積もっても平均で週3回は大学生協で昼食を摂っているのですから(学生・院生時代は、ミールカードなどありませんでしたが、夕食もしばしば大学生協で摂っていました)。これまでの昼食の回数をざっと計算してみると 3(回)×50(週)×40(年)=6,000回。65歳の定年までで数えると7,000回を超えます。「塵も積もれば山となる」で、すごい数です。
……と、やや変化球的に書き始めましたが、今から約40年前、上京して生まれてはじめてのひとり暮らしでスタートさせた大学生活を生協が支えてくれたことに心底感謝しています。正直、大学合格直後に入手した諸々の書類の中に「大学生協」のパンフレットを発見したときには違和感がありました。地方都市で生まれ育った自分にとって、「生協」とは、近所にあって母が日常的に買い物している「スーパー」に類する店の名称に他ならなかったからです。「なぜ大学に生協?」というのが率直な印象でした。
しかし、実際に大学に入学してみると、「大学生協」が、それまで自分が理解していた「生協」とは全く異なる存在であることはすぐに分かりました。まず、生協の食堂がなければ極めて不規則なものになっていたに違いない毎日の食生活を支えてくれました。また、書籍や文房具をはじめとして大学生活を送る上で必要となる諸々の品々。「生活協同組合の組合員」であることのおかげで、書籍のように通常は割引の対象とならないもの(「定価販売制度」対象品)まで割安の組合員価格ですぐに購入できたのは本当にありがたかったです。自分が大学に入学した1982年は、今、歴史的使命を終えようとしている音楽 CD がちょうど出回り始めた頃で、食事や勉学関係だけでなく、趣味のものや、果ては自動車学校の予約や旅行の手配まで取り扱っていました。文字通り「生活協同組合」=「大学生活を支えるためのみんなの(共同)組合」でした。学生・院生時代の約10年を過ごした自分の出身大学の生協には本当にお世話になったと今でも強く思っています。
以上のような事情で、自分にとって大学と生協は切っても切れない存在であったので、1993年に山口大学に赴任した際、メインキャンパスである山口市の吉田キャンパスに大学生協が存在していないことは驚きでした。実のところ、1990年に工学部(常盤キャンパス)単独の生協が、そして1994年に医学部(小串キャンパス)単独の生協が創設されていたのですが、吉田キャンパスに生協が誕生したのは1996年のことで、その後、1998年に3生協が合同して単一の山口大学生活協同組合となりました。自分も1996年に山大生協の組合員になって、そのまま今日に至ります。
ただ、生協との関わりでは、長年にわたって「組合員」というよりも「利用者」という側面が強かったことも事実です。ところが、2000年を過ぎた頃から、日頃懇意にしている生協の職員の方より総代を依頼されようになり、快諾していました。生協の組織のあり方は「定款」で定められておりますが、毎年5月に開催される総代会で理事(20名前後)と監事(2, 3名)(合わせて役員)を選出し、さらに理事の互選で理事長を選出しています。明確な規定はありませんが、慣例的に、すべての学部から最低1名の教員が理事に選出されていました。
「理事に立候補しないか」という打診が最初にあったのは2018年度が始まって間もなくのことでした。上述のように、「これまで世話になってきた」という意識が強かったので恩返しの意味を込めて受諾し、2018年5月の総代会で無事に選出されました。
迷ったのは、2020年が始まって間もない頃(まだ、2020年がコロナ禍であのような年になるとは誰も思っていなかった頃です)、当時の理事長が退任の意向を示され、後任として理事長に立たないかと打診されたときです。正直、ヒラの理事であれば one of them で、他の理事にならって仕事すればいいわけですが、理事長となると「オレでいいのか?」という気分でしたし、自分よりベテランの理事も多数おられ、そちらの方々の方が適任だと感じました(正直、今でも、なぜ自分が推挙されたのかよく分かりませんが、おそらく、2年間の理事生活の中で唯一強く主張したのが「非常勤職員の方に些少でも構わないので期末手当(いわゆるボーナス)を出せないか」という点で、それが評価されたのだと思います。それ以外に心当たりがありません……)。
色々と迷いましたが、最大の責任を負う(自分にとって全く未知の分野である)経営面に関しては、正規職員の専務理事が中心となってこなしてくれており、その点では「お飾り」的存在であることが少し心の救いでした。山大生協は、2019年秋に、吉田キャンパスのド真ん中に新たな福利厚生施設として FAVO をオープンしており(1階が FAVO Cafe と多目的室で2階が FAVO Books ですが、すべてコミュニティー機能を重視した、清潔で快適な空間作りを強く意識してデザインされています)、これをコアにして生協のコミュニティ機能をより高めたい、とやってみたいことは確かにありました。このため、最初に話をいただいて1, 2週間後には受諾したのですが、その時点では、これまでの理事長(通常2〜4年程度務めておられました)にならって、最低でも2年間はやるつもりでした。
実際に理事長職に就いたのは、2020年5月下旬にオンライン主体で開催された総代会とその直後の理事会を経てですが、受諾してから就任までの4ヶ月間に世界は一変していました……。
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はからずもこの4月から国際総合科学部の学部長職を務めることとなり、やはり迷ったのですが、山口大学の全構成員を対象とした組織のトップを特定の学部の学部長が兼任することは好ましくないと判断し、(当初の思惑とは異なり)1年間で生協の理事長職を辞することにしました。そして、先日開催された今年度の総代会と理事会で新たな理事長が選出され、理事長としての任期を終えました。
1年間を振り返ってみると、ことごとく当初の思惑が覆され続けたことに、(やむを得なかったとはいえ)やはり苦い思いを覚えます。それまで、山大生協の経営は比較的順調だったので、経営面は(やはり従来通り)専務理事に一任していればいいと思っていたのが、就任早々、「このままいけば単年度で1億数千万の赤字」という現実を突きつけられ(決して大袈裟ではなく、組織として「存亡の危機」でした)、頭を抱えました(完全なロックダウンではなかったとはいえ、特に昨年の4〜5月、キャンパスに学生の姿はほとんどなく極めて閑散としていた、すなわち、生協の利用者がほとんどいなかったので、致し方ない事態でした。幸い、後期は例年の8割方まで利用者が復活したので、通年の決算ではなんとか持ちこたえることができましたが)。
受諾した際は「あれもやりたい、これもやりたい」と意気込んでいたのに、結果的には、組織を守ることに手一杯で、新たな試みは実質的に何もできなかったことに内心忸怩たる思いです。他方で、コロナ禍によって生活の基盤が壊されて苦境に立たされた方々の心情は、理事長職を務めなかった場合と比較したらはるかに理解できるようになりました。身近なところでは、一般の業者が運営していた吉田キャンパスの第一食堂は事業撤退を余儀なくされました(廃業に追い込まれた飲食店など、似たような事例は山のようにあると思います)。火中の栗を拾う真似であることは百も承知の上で、専務理事と相談の上、後任の運営に生協は手を挙げることにしました。
苦境に立たされていても、否、立たされているからこそ、「みんなの生活を守り、より充実したものにしていく」という大学生協の理念の意義は一層重要であると思う次第です。理事長職は退きましたが、これからもサポーターであり続けたいと思います。
[1] こう記しておいて、蓋を開けたら80過ぎまで生きていたらいい笑いものなので、若干複雑な心境ですが……(笑)。